本日の朝日新聞の書評欄で、スージー鈴木が渋谷陽一の功績等について語っている。その中で、忌野清志郎の言葉を引用しながら、歌詞のみを偏重する傾向があった点について指摘をしていた。キヨシローは「歌詞だけではなく、コード進行や録音も含めた音楽全体をまるっと評論してほしいと訴えたのだ。」とのこと。佐野元春がするような、GマイナーからB♭にいって・・・みたいな話をキヨシローが好むかどうかはちょっと疑問だけど、ううむ確かに。渋谷陽一は洋楽をかける際、歌詞の和訳の朗読をするのが恒例だったりしてたもんなあ。まずどのような事が歌われてるのか、音楽の精神性(笑)を重んじてたんだよ。思わず、(笑)を付けてしまうのが私の悪い癖であるが。
しかし一方で、自分の番組に泉谷しげるがゲストで出た際、「泉谷さんの作品は詞の素晴らしさのみが取り沙汰されますけど、曲がイイんですよね」みたいな事を言っていた。これに対し泉谷が「そう言ってくれるのは、渋谷、お前だけだ。」と言っていたのが私は忘れられない。当然ではあるが、歌詞だけ重視してたのではない。当たり前である。
でも、前にもブログに載せた音声だけど、これなんか聴くとキヨシローの言わんとしてる事もよく分かる(笑)。友達同士のノリが強すぎるという以上に、たぶんキヨシローはもうちょい「音楽」そのものの話をしたいんだろうね。
1984年11月30日(金)放送 NHK-FM「サウンドストリート」より(曲は割愛しています):
ただ、渋谷陽一は「コード進行」とか「録音」とか、そういう細かい事には関心がなかったのではないだろうか?どうでもよかったのでないだろうか?(笑)
「良い」か「悪い」かで捉えていたように思う。そういう大雑把さ(良い意味での)が好きである。←たぶんそんな単純な話ではないです
んで、私の認識に間違いがなければ、クラシック評論家の吉田秀和も同じだったと思う。細かい部分はあまり気にしないのだ。レコードの場合でも、演奏会の場合でも。あるいは、作品そのものについて語る場合でも。もちろんもちろん、細部について譜例を示しながら論じることもあるのだが、ほかの評論家より少ないと思う。もっと全体の雰囲気とかムードを重んじているのだ。そっちの方がよっぽど大事。てか、吉田秀和が録音がどうこう言うのなど聞きたくもない。
それで私が思い出したのは、フジテレビ『オドオド×ハラハラ』の最終回で三谷幸喜が「台詞にはほとんど意味ない」と、ぶっちゃけた場面。人を感動させるのは言葉ではなく「心」があるかどうかだ、という話の流れの中で出たのだが、まあバラエティ番組だから冗句の面もあったのかもしれないけど、なかなか胸を打つ発言であった。細かい部分が重要なのではないということが言いたかったわけだと思う。
また、先日の『あちこちオードリー』で古田新太が、芝居が下手なヤツの例として、台詞を言うに当たって「カーテンを開けてからの方がいいですか、閉めてからの方がいいですか」と監督に訊くヤツを挙げていた。「どっちでもいいんだよ そんなのよ」と古田新太はブチ切れていたが、なるほどねえと合点した。そんな細けえ事はいいから、まずやってみろということである。
ということで、私も細部にはこだわらないウィーン・スタイルでやっていこうと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
話は変わって、昨夜のチコちゃんに叱られる!で「日本ではなぜ台風を番号で呼ぶのか」が取り上げられていた。答えは、番号の方が都合が良かったから、という比較的つまんねーものであったが、私はジワジワとある漫画を連想してしまい、本日そいつのコンビニコミックを引っぱり出して実際に読んでしまった。
藤子・Fの『パーマン』である。かなり大昔の作品であるにもかかわらず、いまだに未来感を漂わせているのは、この作品の凄さだと思う。それはさておき、パーマン1号、2号、3号と「号呼び」してるのがえらいカッコいい。しかも、普通であれば、1号が主人公の男の子なら、2号を女の子とすべきところ(ヤッターマンのように)、女の子は3号にして、2号はサルにしてるのがすげーカッコいいのだ。惚れ惚れするキャラクター構成ではないか。これがもし2号が女の子で3号がサルだったら、どうなっていただろう。なんかつまらないでしょ。男子と女子の間にサルを置くって、素晴らしいアイデアだと思う。
『烈車戦隊トッキュウジャー』の「号呼び」もカッコいいよね。通常はカラーを元に名前がつけられる。まあ烈車だから「号」なのだが、それにしたってヒーローを号で呼ぶのがこんなにクールだとは。抜群のネーミングセンスだよね。
『サイボーグ009』の番号呼びもそう。して、これは自慢じゃないけど(本当は自慢だけど)私がガキの頃から思ってることだが、主人公が「009」で、「001」は赤ん坊だというのが、あり得ないほどのカッコよさである。これがもし逆だったら途端につまらなくなってたでしょ。そして紅一点のナンバーは「003」なわけよ。紅一点を何番にするかってすごく大事じゃないですか。さだまさしの「木根川橋」で、のりちゃんの好きだった娘の出席番号は15番だった。女の子と番号を連結させるのはセンスが問われる。
一体フランソワーズ・アルヌールが002や006や008という番号だったら、個人も全体もどんな感じになってただろう。まあ既にキャラクターと数字が強く結びついてしまっている中で、こんなこと考えてもナンセンスだが。フランソワーズ・アルヌールは絶対、「003」でなければならないのです(笑)。「3」という数字の、優しく丸みを帯びた形状。これこそ紅一点に相応しい名前なのです。
紅一点が「002」だと、いかにも取って付けたようでしょう。紅一点が「004」だとトゲがあるでしょう(笑)。紅一点が「005」だと、9人のうちの真ん中になっちゃうから、なんかイヤでしょ(笑)。「006」だと、いかにも目立たない所に置いたなあという感があるでしょ(笑)。「007」だと、なんかボンドガールみたいになっちゃうでしょ(笑)。「008」だと、これもまた取って付けたようになっちゃうでしょ。
003は「003」以外、あり得ないのです!
そんなことを考えながら過ごした日でした。
日の出前。瀬戸内海のような静かな海。
朝食:

納豆にネギが多すぎるように見えますが・・・

よく混ぜれば、ほら大丈夫。

こわくない、こわくない。
晩飯(笑):
