昨夜Eテレから録画してた「クラシック音楽館*N響第2021回定期公演」を再生するのであった。ヘルベルト・ブロムシュテット指揮によるシューベルトの交響曲第7番「未完成」&交響曲第8番。
あらら、よい演奏だなあと思った。これから冬を経て新春へ向かっていくに際し、生きていく上での指標ともなるような演奏ではないか。ブロムシュテットってそんなに好きな指揮者ではなく、どちらかと言えばあまり好きではないタイプの指揮者ですらあるのだが、あらら、これは良い演奏だなと思ってしまった(笑)。
で、今さら言いたいんだけど、やっぱ「未完成交響曲」が「第7番」というのが未だに馴染めない。古い人間なんでおま。
小学校の中学年の頃だったのかな。いとこの家で引越しがあり、私よりけっこう年上のいとこは自分の読んでいた本を大量に寄贈してくれたのであった。
その中の一冊にポプラ社のシューベルトの伝記があり、私の愛読書となったのであった。
んで好きな作曲家はシューベルトになったわけよ。高校生の頃にはブラームスに変わっちまってたけど(笑)、
この本に限らず、当時は「未完成交響曲」と言えば「第8番」ということに決まっており、動かざる真理だったのである。常識を疑う術など、我々は持ち合わせていなかった。
一方、ハ長調の交響曲は「第7番」あるいは「第9番」とされていたのであった。
しかしそれにしても、後から作曲されたのを承知でいながら順番はひっくり返されず、「未完成交響曲」は「第8番」!と死守されていたんだねえ。。
この伝記だとハ長調交響曲は「第7番」とされてますが、「第9番」という数え方も当時ありました。その場合「第7番」は、ウルトラセブンの第12話みたいに欠番扱いだったような気がします。
はて?なして「未完成交響曲」は「8番」という数字にこだわる格好にされたのだろうか?
答え:ベートーヴェンとの対比である。
これには4つの説が複雑に絡んでおりまして、
① ベートーヴェンの第9番の深い内容まで、若きシューベルトはたどり着けなかった。その象徴として、9の手前の「8」である。
② 「第九の呪い」をシューベルトにもむりやり当てはめようと、ハ長調交響曲は「第9番」とされた。そのあおりを受け、「未完成交響曲」は「第8番」となった。
③ 未完成=遺作という形づくりのため、実際には作曲順が逆であるにもかかわらずハ長調交響曲が「第7番」とされ、結果的に「未完成交響曲」は「第8番」とされてしまった。
④ ベートーヴェンの8番がミニ交響曲だから、「未完成交響曲」も同じ番号が相応しいのではないかとされた。
ということなのではないかと勝手に思ってます。
いずれにしても、「未完成交響曲」が「第7番」というのは馴染めません。新マンをジャックなどと呼ぶようなものです。許しがたい感じすらします(笑)。
同様に「ハ長調交響曲」が「第8番」だと?似合わねえー、ふざけるな。奇数が似合うんだよ、奇数が。←それこそベートーヴェンじゃん、
あれだ、俺様は心の中で「未完成交響曲」をシューベルトの「第8番」と呼称し続けるぜ!じょうだんじゃねえぞ!1
まあ、競走馬の年齢の数え方が変わってしまったのと同じぐらいの違和感なわけなんですよ。
・・というオチのブログでした。。
松本零士「未完成」より
朝食:
納豆にネギが多すぎるように見えますが・・・
よく混ぜれば、ほら大丈夫。
こわくない、こわくない。
晩飯(笑):